2023-07-09
自分の人生を回想し、過去の気分に浸っているうちに、その気分がすべてを支配していることに気づくようになった。誰かに怒りを感じている最中は、それが私の現実であり、他の現実を忘れてしまう。他の現実が存在することを理解する知性はあるかもしれないが、私にとっては現実ではない。怒りの状態がすべてを支配しているのだから。
怒りを例に選んだのは、それが強い状態だからだが、空腹感であれ、心配事であれ、満足感であれ、勝利の感覚であれ、他のどんな状態にも同じことが言える。これらすべての気分はすべてを飲み込むものであり、他の気分を認識することは、他の状態が存在するという事実にリップサービスをすることにほかならない。今の私にとって、それらは本当に現実ではない。私たちはもっと瞬間とつながるべきだという意見を耳にする。ある意味では正しいが、ある意味では的外れだ。私が言いたいのは、私たちは自分の気分である瞬間に完全に、完全につながっていて、他の気分はその時の私たちにはアクセスできないし、現実でもないということだ。
怒りの状態に戻ろう。最後に本当に怒ったときのことを思い出してみてください。今、そのような怒りを感じているだろうか?もちろんそんなことはない。当然、その時の怒りは覚えているだろうし、そのことを考えると、今は少し怒りが湧いてくるかもしれないが、一生懸命に努力しない限り、元の怒りの状態に戻ることはない。そうすることは可能ですが、それには努力が必要です。
このブログを読んでいる今、あなたが元の状況で感じたのと同じ程度にその怒りを感じているかどうかは疑わしい。実際、その状況が完全に終わったのであれば、おそらくあなたは怒りを感じていないだろう。もしその状況の一部が残っていれば、怒りを感じるかもしれない。しかし、元の怒りとはまた違う。私たちのすべての状態について私が言いたいのはそういうことだ:それらはすべて消費されるが、いったん私たちのもとを離れれば、用心深く、できる限り頻繁にその状態に戻って再体験しない限り、事実上存在しない。そのような練習をすることで、私たちはこれらの状態が儚いものであり、私たちがそう思いたいほど現実的なものではないことに気づくようになる。
こうすることで、私たちは無執着を学び始める。そうすることで、状態に飲み込まれることから解放されるだけでなく、状態に囚われていると感じなくなる。
つい数日前、私は絶望の淵に立たされた。ほとんど圧倒されるような状態だったが、幸いにも呼吸法を思い出して、20分ほどでその状態を払拭した。というのも、本当にその状態を打ち消したからだ。というのも、その状態は本当に消えていて、2時間後にはその感覚をほとんど忘れていたからだ。でも、そのときの感情はともかく、自分の思考は覚えていて、まるですべてをあきらめなければならないような、自分のしてきたことはすべて無駄で実りのないことだというような、完全な絶望の思考だった。このような状態に移行することも、この回想活動の一部だと思う。なぜなら、定期的に実践するうちに、気分の出入りがしやすくなるからだ。私を襲った絶望感はネガティブな経験だった。その一方で、本当にポジティブな経験もする。一度だけ多幸感を感じたことがあるが、それにはまったく理由がない。もちろん、そのような状態を払拭しようとは思わない。とにかく、私が言いたいのは、こうした気分や感情は季節のように移り変わるものだから、あまり執着しない状態を培うべきだということだ。私たちの内側にある、行ったり来たりしないもっと深いもの、つまり私たちの注意とつながるべきなのだ。