2023-08-14
呼吸を一掃する作業は、今、私の日常生活に影響を及ぼしている。自分の欲望が弱くなっていることに気づいたのだ。これはいい意味だ。
たとえば、淹れたてのコーヒーを嗅ぐと、いい香りがする。飲んでみたい。
でも、過去に飲んだようなコーヒーへの憧れはない。コーヒーそのものの楽しさには影響しないが、飲みたいという欲求は減っているようだ。
しかし、欲望との感情的な距離が縮まるにつれて、もうひとつ気づいたことがある。欲望そのものが恣意的に見えるのだ。数年前、私は子供の頃、あるおもちゃで遊ぶのが他のおもちゃよりも楽しかった。今となっては、そこに本質的な特別さはなかったとわかる。ある組み立て玩具は本当に楽しかったし、別の組み立て玩具はあまり楽しめなかった。一方のおもちゃがもう一方のおもちゃより優れていたわけではない。どちらか一方が優れているわけでもなく、どちらかが私に合っているわけでもない。このような欲望には恣意性があるようだ。
これは私たちのアイデンティティの感覚につながる。私たちは欲望によって自分自身を識別する。しかし、今の私にはそれが恣意的に見える。 このことは、私の「アイデンティティ」の多くが恣意的であったように感じさせる。私はサイクリングをする人間であったかもしれないし、水泳をたくさんする人間であったかもしれない。 確かに外部からの影響はあったが、それは個人的なものではない。外部からの影響を除けば、私がサイクリングではなく水泳を選んだ本質的な理由はない。完全に恣意的とは言えないかもしれないが、私の選択にはある程度の恣意性がある。
実際、私が自分の欲望に感じてきた執着そのものが、それらを恣意的なものではなく、何らかの意味があると感じさせてくれた。今、私が自分の執着をどんどん手放していくにつれて、その浅はかさがわかりやすくなってきている。
私が見たいと思っているのは、より多くの執着を手放すことがだんだん簡単になるということだろうか? そのような気がする。